もう、涙が出ます.

私は東海地震が起きる起きると言われ続けた名古屋で育ちましたから、震度3や4の地震には慣れっこでした.地震が起きたらどうすればいいのかなんて、小学校の1年生から習いました.そんな私は姫路で、阪神淡路大地震を体験しました.今までに体験したことのない直下型の縦揺れと、時がたつにつれて増していく振幅.時間にして20秒ほどだったと思うのですが、私は死ぬかと思いました.でも、姫路の震度は確か4だったと記憶しています.建物にも被害が無く、会社に出勤する前に最後に見たニュースでは、大阪で屋根から落ちてきた瓦が頭に当たってケガをした人が一人いるというのが最初の被害報告だったと思います.その後の惨状はご存じの通りです.


地震の数日後、車は通れないので、わざわざオートバイで神戸まで行って記念写真を撮って帰ってくる輩がいるとニュースを見て、とても悲しい気持ちになりました.でも、日々伝わってくるニュースを見て、地震から3週間後に私もオートバイで神戸に行きました.三宮の東急ハンズ前まで行って、町を歩きました.この震災と同じ時間を生きた者として、自分の目を通してその様子を記憶しようとしました.私は「ここは戦場か.でも、本物の戦場を見たことがないんだからそんな事はわからない.でも、ゴジラが通った跡のようだ」、そんな風に思いました.


それから何年もしてから知ったのですが、戦場カメラマンの鴨志田穣さんが、震災直後に神戸に入っていました.その著書を読むと、「まるで内戦中のとある町に来てしまったような錯覚にとらわれてしまった.戦場の方がまだ良いかもしれない.戦場では誰かを恨むことができる.でもこの町の人々は、恨む相手すらいない」とあります.私が「ゴジラに破壊された町」と感じたのも、まんざら外れではなかったようです.


地震の被害に良いとか悪いとかそんな事はないのですが、私が阪神大震災で一番残酷だと思ったのは、倒壊した木造家屋に体を挟まれて抜け出せなくなった人が、遠くの方で起こった火事が延焼してきて、地震の二日後くらいに、ついに倒壊した家屋にも燃え移って、体を挟まれたまま生きたまま焼け死んだという話.そのおじさんは生きていました.まわりに人もいました.だけど、倒壊した家屋をどける機材が無く、延焼してくる火災を消す手段が無く、「おっちゃん、ごめんな、ごめんな」と言いながら、まわりの人は避難したんだそうです.その後ニュースで一度だけ映りました.倒壊した家屋の燃え残りから、這い出すように両手を突っ張ったままの人骨を.あまりに衝撃的だったので、その後、その映像が流れることはありませんでしたが、私は絶対に忘れられません.


さっき、テレビで、陸上自衛隊が撮ったという、気仙沼付近の大規模火災の映像がテレビで流れました.私は家屋に挟まれて、生きたまま焼け死んだおじさんのことを思い出しました.あの炎の中にもそんな人がきっといるはずです.私はとても悲しいです.でも、私が悲しんでも一人の人を助けることも出来ません.あの時も、今回も、なんて無力なんだろう!!.